2020年3月13日、私は会社員として有給休暇をもらい、東京・墨田区にある山口産業のなめし工場を訪ねました。目的は「MATAGIプロジェクト」の見学です。害獣として駆除されたシカやイノシシの皮を、革として生かし切る取り組み。資料だけでは分からない「現場の手ざわり」を、いま振り返って書き残しておきます。

目次
- 有給を取って、墨田区のなめし工場へ
- MATAGIプロジェクトとは——「命を最後の1枚まで」
- 皮から革へ——ラセッテーができるまで
- 革は「Lv2」までしか取れない、という話
- 駆除124万頭、革になるのは0.016%
- だから「Leather Circus」が生まれた
- 好きだから、隣で考えたい
有給を取って、墨田区のなめし工場へ
正直に告白すると、当時の私はまだ革を仕事にしていたわけではありませんでした。ただ「革がどこから来るのか」を自分の目で確かめたくて、平日の有給を一日もらって出かけたのです。
その日の参加者は、全部で4名。大人数のイベントではなく、ほとんど少人数の勉強会のような静かな場でした。前半は座学。山口産業の方が、MATAGIプロジェクトの仕組みを一つひとつ説明してくれます。いま思えば、説明を録音させてもらえばよかった——細かな数字や固有名詞は、あとから記憶の糸をたぐるしかありません。
MATAGIプロジェクトとは——「命を最後の1枚まで」
MATAGIプロジェクトの仕組みは、驚くほどシンプルです。全国の産地(猟師さんや自治体など)から駆除された動物の原皮が送られてきて、山口産業がそれをなめし、革にして産地へ送り返す。ただそれだけ。けれど、この「送り返す」が、これまで誰もやってこなかったことでした。
私が訪ねた当時で、原皮を送ってくる産地はすでに全国350カ所ほど。現在はさらに広がり、公式サイトによれば全国400カ所を超えています。始まりのエピソードが印象的でした。山口産業は朝4時台から仕事を始めるそうですが、ある早朝、北海道から来た二人組がエゾシカの皮を持ち込み「これをなめしてほしい」と頼んだ。仕上がった革は厚さ1.5mmほどなのに、驚くほど柔らかかった。その噂が口づてに広がって、全国へとつながっていった——という話です。
なめすのはシカだけではありません。イノシシ、クマ、ときにはダチョウまで。クマは「100枚に1枚あるかどうか」で、ある程度たまらないと加工できないそうです。”害獣”とひとくくりにされる命が、ここでは1枚ずつ素材として扱われていました。
皮から革へ——ラセッテーができるまで

後半は、実際の作業を見せてもらいました。原皮は、まず脂や肉を削ぎ落とすところから始まります。このとき、しっぽの付け根を落としてしまうと、なめすときにドラムの中で革が絡まってしまう。だから雑には扱えない。手作業では「せん」と呼ばれる刃物(金へんに「先」と書く字だそうです)を使い、濡らしながら削いでいく。ドローナイフで代用することもあるとのことでした。
そして山口産業の核心が、植物タンニンなめしです。同社が開発した「ラセッテーレザー」は、植林されたミモザの樹皮から抽出した植物タンニン100%でなめす製法。クロム(金属系)を使わないので排水を汚さず、ふんわりとした独特の風合いに仕上がります。なめした後は、染色・加脂を経て、木組みの専用干し場で1枚ずつ棒に掛けて自然乾燥。色によっては一昼夜染料に漬け込むこともあるそうです。
クロムなめしが主流になったのは明治の中頃。早くて工程が少なく、コストもかからない。だから一度は植物タンニンなめしが廃れかけました。それでも山口産業は「この技術と風合いを残したい」と、あえてタンニンに舵を切った。70年以上続くなめし屋の、静かな意地のようなものを感じました。
革は「Lv2」までしか取れない、という話
見学のなかで、いちばん腑に落ちたのがこの話でした。ラセッテーレザーは、赤ちゃんが触れても安心という安全基準(エコロジカルな等級)で「Lv2」を取得しています。ここで普通なら「最高ランクの安全性なんだ」と受け取りますよね。私もそう思いました。
ところが、見方を一段ずらすと違う景色が見えてきます。革は、構造上どうやっても最高の「Lv1(口に入れても安全=食べられるレベル)」は取得できないのだそうです。理由は、革の約1割が水分であり、その中に何が含まれているかを完全には保証しきれないから。つまりLv2は「妥協」ではなく、革が誠実に取れる上限なのです。
「最高ランクを取れない」とあえて正直に言える素材は、信頼できる。等級の数字より、その正直さのほうが、私にはずっと魅力的に映りました。
駆除124万頭、革になるのは0.016%
ここからが、この体験記でいちばん書きたかったことです。MATAGIのなめし技術は素晴らしい。けれど、現場で聞いて衝撃だったのは「なめすのは良いが、その先で製品にする人・売る人が見つからない」という産地の悩みでした。
数字が、それを裏づけています。公式サイトによれば、2023年度に駆除された野生動物は約124万頭。一方、MATAGIで革になったのは約2,000枚で、活用率はわずか0.016%。命の大半は、革になる前に廃棄されているのが現実です。
ここで気づくのは、ボトルネックは「なめし」ではない、ということ。皮を革にする技術はもう確立されている。詰まっているのは、その革を「誰が製品にして、誰に届けるか」という出口のほうなのです。革を欲しい人はいる。でも、産地から流れてくる革は入荷も品質もバラバラで、大量生産・大量卸を前提とする既存の革業者にはそもそも扱いづらい。1枚ずつ売れば高くつく。需要と供給が、構造的にすれ違っている。
だから「Leather Circus」が生まれた
そのすれ違いを埋めるために生まれたのが「Leather Circus(レザー・サーカス)」というマッチングの仕組みでした。考え方はこうです——山口産業がすべてを仲介するのではなく、産地自身が革を売り、加工し、利益にできるようにする。革が欲しい人は、産地に直接問い合わせる。
なぜ山口産業が間に入って紹介しないのか。その理由が現実的でした。一度仲介を引き受けてしまうと、品質の説明から在庫の案内まで、すべてを背負うことになる。けれど野生動物の革は「北のシカは大きく、南は小さい傾向」くらいの話はできても、1枚ごとに状態が違い、「どれが良い」と一概には言えない。だから案内しきれない。むしろ産地と買い手が直接つながったほうが、お互いにとって健全だ——という判断です。経費をかけて間に立つより、利益を産地に戻す。その思想が一貫していました。
実際、少しずつでも産地から革を仕入れて、かばん屋や雑貨屋として製品を作っている人たちもいるそうです。「一度売れる筋道がつけば、革は売れる」。飲食店が口コミで流行り出すのと同じで、最初のきっかけと固定客さえつかめれば、産地は安定して回り始める。その最初のひと押しが、まだ足りていないのだと思います。
好きだから、隣で考えたい
私はこのメディアを始める前、革の小売りの現場に1年間立っていました(その話は「革屋で働く」という選択肢に書いています)。だからこそ、「良いものを作っても、売る・届けるところでつまずく」もどかしさが、人ごとに思えません。
MATAGIプロジェクトと山口産業が見せてくれたのは、「頂いた命を最後の1枚まで大切に使い切る」という、技術と思想の両輪でした。ラセッテーレザーのなめしは、その入口にすぎません。出口——作り手と届け手をどうつなぐか——には、まだ余白がたくさん残されています。
業界を外から批評したいのではありません。革が好きだからこそ、この余白の前に立って、隣で一緒に考えたい。あの日、有給を取って墨田区まで足を運んだ自分の小さな一歩を、今度はこのメディアでつなげていけたら——そう思っています。


